武田信玄の赤い甲冑を着た画はいろいろありますが、そうではない肖像画といわれるものはほぼ二つしかありません。
一つは高野山の成慶院にあるもので、もう一つは同じく高野山の持明院にあるものですが、この二つの画は同じ武田信玄を描いたものとされているのに全く別の人に見えます。
ということはどちらかが正しい武田信玄の肖像画でどちらかは間違っている、はたまた両方間違っているパターンが考えられますがどちらが正解なのでしょうか。
武田信玄像 成慶院蔵
成慶院の武田信玄像 |
1572年頃製作、作者は長谷川等伯(信春)!。
高野山の成慶院はここ |
今まではこちらの画の方が有名でしたね。
なぜなら武田信玄と言えば、
「風林火山」
「人は石垣 人は城 情けは味方 仇は敵」
等の名言 別名が「甲斐の虎」 などなど、とてもパワフルで力強いイメージがあります。その感じで言うと上の画は、鋭い目つきに豪快な八の字髭が生えていますし、いかにも大物感のあるどっしりとした体型ですのでそのイメージと一致すると言えます。
なのでこれが武田信玄だと言われたらそのまま信じてしまうのも納得です。
ですがこちらは現在有力な武田信玄像になっていません。
どうもよくよく見てみると整合性のとれない点がいくつかみつかったようです。
その理由を説明します。
理由1 家紋が違う
上の画の左側に刀が置いてあるのですが、この刀の目抜きにある家紋が武田家の「剣花菱」ではなく「二引両紋」が描かれています。柄と刀とを繋ぐ釘やそれを覆う金属が目貫なんですね |
(上の画像では解像度が悪くて見えませんw) 「二引両紋」と言えば足利家ですが、その親戚筋の家もこの家紋(の亜流なもの)を使っていますね。
有名どころでは今川家がそれです。
なので今川家は足利副将軍家の一つと言われてた時期もあるくらい名門の家なんですね。
当然武田家は甲斐守護出身(鎌倉時代は御家人で駿河守護でもあったらしいですが)で足利家の親戚でもなんでもありませんからこの「二引両紋」を使うのはおかしいことになります。
理由2 髪型がおかしい
武田信玄といえば39歳で出家してこの名前になっており、その前は武田晴信です。ならば上の画は坊主頭なので出家した人の頭してるじゃないかと一見思えるのですが、よく見てみるとそれは違います。
後ろに小さな髷があるのです。
出家したとしても還俗することはありますので、また普通の武士姿になることも考えられなくもないですが、名前を晴信に戻したという形跡はありませんのでそれはないでしょう。
とすれば髷があるのはおかしいということになります。
これらの点でこの画が武田信玄ではないとされました。
他にも、この画が武田信玄の肖像だとされた根拠であった「勝頼が成慶院に宛てた書状」と「松平定信の『集古十種』の記述」もそれを裏付けるものがない上に、武田信玄と長谷川等伯に接点がないという点もあるようです。
ではこの画は一体誰なんだというと、能登の守護大名である畠山義続だといわれています。
理由としてはこの画を描いた長谷川等伯(信春)が能登出身であり、当時でも有名人だったと思われるのでおそらく接点はあっただろうというのと、畠山家の家紋が「二引両紋」だからだそうです。
武田晴信像 持明院蔵
こちらの画は高野山持明院所蔵の武田信玄像です。 (こっちも高野山にある!!)
1550年頃制作、作者は弟である武田信廉(らしい。信兼は父親の武田信虎の肖像画も描いている)
持明院の場所はここ 同じ高野山ですが成慶院とは少しだけ離れてますね |
現在テレビ等でも有力になっているのはこちらですね。
成慶院の大きくどっしりしている肖像画と比べると、こちらは顔が細面になり全体的にややすらっとしています。
この画は信玄の父である信虎を追放して数年後、甲斐の守護として自らの姿を写させたと考えられる画で、信玄の亡きあとの甲斐を継いだ武田勝頼が、自分の死後、高野山引導院(甲斐武田氏の菩提寺)に納めるよう、甲斐・慈眼寺住職の尊長に託した画といわれています。
ちなみに引導院は、明治初年に合寺して持明院となりました。
こちらは正式には武田信玄ではなく信玄になる前の晴信像ですが、結局は同じ人なので武田信玄像としても間違いではないでしょう。
出家したのに剃髪してないのはこれが晴信像だからですね。
あとこの画は上の画と違って着物に花菱がこれでもかと付いています。
なので武田家の人間である可能性が上のものより格段に高いといえますね。
というように、こちらの方が 「武田信玄ではないという理由が少ない」 ということで現在有力な武田信玄像の座に納まっています。
そうです。
こちらも確証があるわけではないのです。
実は成慶院の信玄像も勝頼が納めさせたといわれていますし、長谷川等伯も信玄夫人の実家となんらかの係わりがあるという話もあるので、絶対的に持明院の画が正しい武田信玄像とも言い切れないのです。
とはいえ他に画はあるのかというと難しいので、一番妥当だと思われるこちらが現在テレビなどで採用されているのでしょうね。
伝・吉良頼康 浄真寺蔵
上記以外の説ではこちらの画があります。
この画は東京世田谷の浄真寺にあるもので、着ている篭手や兜に花菱が描かれているのが分かります。
浄心寺はここ 田園調布らへんにあるんですね |
が、武田家とこの吉良頼康の関係もこの画がどういった経緯でこのお寺にきたかもよく分かっていませんので「これが本物の武田信玄だ」というところまではいっていません。
しかし一番上の画の信玄像が覆ったように、将来研究が進んで新たな資料等が出てきたならこちらの画が「本当の武田信玄像」になる日がくるかもしれません。
まとめ
現在の有力説は「武田晴信像(持明院蔵)」 だが、こちらも100%正しいわけでも従来の武田信玄像が100%間違っているとも言い切れない点がある。
この他にも吉良頼康像という候補がある 武田信玄は忍者(武田では透波とか歩き巫女とか呼ぶみたい)をたくさん使っていたり、自分の死んだことを三年隠せと最後に言ったりしてますので、暗殺だとか情報戦略的にもしかしたら肖像画なんて一枚も描かせていないのではないか、と自分としては考えたりもします。
西郷隆盛も暗殺を恐れて肖像画やら写真を一枚も残していませんし。
(そう考えると西郷も相当な情報戦略家に思えるなあw)
とはいえこんなビッグネームの戦国武将なのに姿なしでは格好がつきません。
(赤い甲冑を着た画はたくさんあるけどあれは肖像画とは言えないし)
武田二十四将図の一つ |
テレビの歴史番組でも、名前しか残ってないような人と同じように黒い人影で説明されては、面白みも半減どころか激減です。
(家臣の高坂弾正とか、先代の武田信虎、次代の武田勝頼は画が出てくるのに信玄だけ人影では様にならなさすぎるw)
なので確証はなくても一番妥当性が高い武田晴信像(持明院蔵)が使われるのかもしれませんね。
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